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terre thaemlitz writings
執筆

The Laurence Rassel Show
The Post-Feminist Radio Drama Assassinated Before Broadcast
 
- Laurence Rassel & Terre Thaemlitz


リリース:2007年6月1日 Comatonse Recordings (Japan: C.016.CD/C.016.EP), Constant vzw (Belgium), Public Record (US: 2-01-014)。無料MP3ダウンロードはこちらにクリック。 コマトンズ・ショップのCDとビニールのリリースホームページはこちらにクリック。 CDのパケージデザインはこちらにクリック。 2005年に、トランスジェンダーであるTerreとベルギーを拠点とするサイバーフェミニストLaurence Rasselは、コピー・レフトと著作業に関する「The Laurence Rassel Show」というラジオ・ドラマを作りました。 もともとドイツの公営ラジオの依頼で作成されたのですが、内容に問題があるとのことで放送がキャンセルされました。 おかしなことは、そのラジオ局は、オーディオ・サンプルが使用されていることを全く気にかけませんでしたが、ペギー・フェラン、ジョーン・スミス、ミシェル・フーコー、ロラン・バルト他による原作者の「根源」と「張本人」のテーマについて書かれた哲学的なテキストの朗読が含まれていることを問題視しました。

 


 


 

Track Listing

  1. Previously on "The Laurence Rassel Show"... 1:39
  2. Opening theme and introduction 2:46
  3. A special message from Joan Smith 3:28
  4. Whereas the party of the first part... 17:58
    「甲はここに…」(翻訳あり)
  5. A special message from Peggy Phelan 7:46
  6. Fetishism as a means of authoring the invisible 8:23
  7. A special message from Michele Foucault 2:46
    ミシェル・フーコーからの突然のメセージ(翻訳あり)
  8. Laurence's confession 10:57
  9. A special message from Michel de Certeau 1:28
  10. On transgendered authorship 8:22
  11. A special message from Roland Barthes 10:04
    ローランド・バルトからの突然のメセージ(抜粋)(翻訳あり)
  12. Terre's Confession 5:36
    テーリの自白(翻訳あり)
  13. A special message from Virginia Woolf 3:49
  14. Message from Yoyogi Park 1:59
  15. Sayonara (closing theme) 2:46
     
    Bonus Tracks:
  16. Useless movement 9:13 - CD & vinyl only
    無益な運動(翻訳あり)
  17. Useless dub 9:13 - CD & vinyl only
  18. Useless movement (radio edit) 4:06
  19. Little girls couldn't murder anyone 12:27 - CD only
  20. Beginnings 1:00 - CD only
  21. Super Karaoke: Laurence 4:35 - CD only
  22. Super Karaoke: Terre 4:07 - CD only
  23. Super Karaoke: Aiko 3:40 - CD only
  24. Post-production interview with Laurence & Terre 13:21

Cast (in order of appearance):

    Aiko Tsuji as the Announcer and Terre Thaemlitz
    Terre Thaemlitz as self
    Laurence Rassel as self
    Marie-Françoise Stewart as Joan Smith
    Nicolas Malevé as self and Roland Barthes
    Tina Horne as Peggy Phelan
    Pierre De Jaeger as Michel Foucault
    Femke Snelting as Michel de Certeau
    Wendy Van Wynsberghe as Virginia Woolf
    ...and the found-source players

Written by: Laurence Rassel & Terre Thaemlitz

Audio by: Terre Thaemlitz

Originally commissioned for broadcast by a German national broadcaster in 2005, delayed and then cancelled in 2006, self-released in 2007 by Comatonse Recordings (comatonse.com), Constant vzw (constantvzw.com), and simultaneously archived as part of the "Articles of Incorporation" series by Public Record (publicrec.org).

Constant is supported by De Vlaamse Minister van Cultuur, Jeugd, Sport en Brussel.

"Useless Movement" published by T. Thaemlitz (BMI). Open Content Logo Collection: copyleft Femke Snelting 2005 - published under a Free Art License (http://artlibre.org/licence/lal/en). Logo numeric key available at: http://www.constantvzw.com/posters/
Public Record release design by Ultra-red. CD release design by Terre.

A deluxe edition double-CD with over 30 minutes of bonus audio, poster, and transcript, is available from Comatonse Recordings and Constant vzw.
"Useless Movement" is also available on limited edition12" vinyl with extended remixes from Comatonse Recordings (C.016.EP).

Public Record at www.publicrec.org is the fair-use archive of the Ultra-red organization. "The record only exists in its excavation. The record demands to be used. And the record exceeds the demand." A free download of this release (minus bonus materials) is available at:
http://www.publicrec.org/archive/2-01/2-01-014/2-01-014.html

Comatonse Recordings (C.016.CD/C.016.EP) | Constant vzw | Public Record (PR 2.01.014)
June 1 2007


 

"The Laurence Rassel Show" 脚本(抜粋)
A Radio Drama by Laurence Rassel & Terre Thaemlitz
(Free English Printable PDF Transcript, 9MB)
 
Click here for English | 英語はこちらをクリック

04. 「甲はここに…」
Whereas the party of the first part...

翻訳:辻愛子

(Complete / 完全) 17:58 30.4MB MP3 224kB/s

Laurence: さて、まずはライセンスするとすれば、どういった選択肢があるか聞きたいのだけれど、えーとこのドラマを作るのに、なんていう会社の為だっけ…
Terre: …ヘッシシャー・ランドファンク…
Laurence: …その為に作った作品のライセンスについて考えた場合、どんな選択肢があるでしょうか?
Nicola Malevé: それはあなたがどのくらい正確さと合法性を求めるかによって違ってくるでしょう。なぜならまずライセンスを決める前に、使用している素材の使用権をきちんと得ているかどうかを確認しなくてはなりません。
Terre: あー、ええと、それは・・・。じゃあ、次の質問は…
Nicolas: それじゃ、しょうがないけど。つまり、この著作権にまつわることの第一歩は、あなたが自分が初めて使うことができる、誰にも使用されていないオリジナルの素材といったようなものを持っているとういうことを法が仮定しているということです。
Terre: それは基本的に不可能でしょう。何についてでもいえます。サンプルを使用した作品ばかりではなくて…
Nicolas: そうですね、もしあなたが無垢で創造的な天才だったらどうかな、(笑)だから基本的にこれは法律上の絵空事(作りごと・空想)なんです。
Laurence: 私たちが手つかずの、新しい、オリジナルの素材を持っていると考えてみてください。
Nicolas: 特にヨーロッパにおける著作権においては、内容(作品)に関する著作者人格権を守ったり法的に保護をうけたりしたいと考えるでしょう。つまりこれは基本的に市場に出したり、他人の利用や使用の為に権利を売ったとしても、あなたのメッセージがけなされたり批判されたりほかのメッセージの為に誤用されたりすることは望まないという事実があるといえますよね。これはヨーロッパの著作権にのみにみられる現象です。でもとても大切なことで、理由は著作権と言論の自由をめぐる議論に対するあなたの態度を本当に変えるものだからです。アメリカでは著作権を売ると基本的に著作者人格権も売る事になります。これはヨーロッパとは違っているので、このテーマは全く違ったものになります。
弁護士: ファイルキャビネットを探して、やっとあなたが最初の出版社と結んだ契約書を見つけました。
女性作家: ああ、良かった。安心したわ。
弁護士: 「甲は…」えーと、これは出版社の事ですね・・・、「ここに…」
女性作家: 失礼、私が読んでもいいかしら?
弁護士: おそらくお読みになれないと思います。法律用語で書かれておりますから。
女性作家: (読みながら)ああ
弁護士: 大丈夫ですか?
女性作家: この書類に私がサインしたなんて信じられないわ。私は権利を放棄している。ああ、なんて馬鹿なんでしょう。私が謝罪するほかないわね。
弁護士: 謝罪?
女性作家: 全く痛々しいことだけど、謝らなくてはならないわ。(くすくすと笑う)
Nicolas:
Nicolas Maleve
Nicolas Malevé as self
私は最初あなたの作品をライセンスする場合、その前にしなくてはいけない基本的な手続きについて話していました。最初は使った素材の使用権を得なくてはなりません。そのほかにどのような法の下にその作品が作られたのかを考える必要があります。あなた達のケースでは、これは大変面白いことになります。なぜなら、ここにヨーロッパ人の著作者になりたくない人と、日本で働くアメリカ人の著作者がいて、その二人が共作した作品をドイツでリリースしようとしているからです。つまり、これは、いま私たちは今までにないような非常に複雑な状況下にいて、なぜかと言えばアメリカの著作権とヨーロッパの著作権と、そして日本の著作権の支配下にあり、しかも日本の法律はアメリカの著作権法と日本の既存の法律の混合物みたいなものでもあるので。だからこれは本当に・・・というより自分では答えの出せない疑問なのですが、どの法が適用されるのか判りません。おそらく、その作品をどこでライセンスするかによるのでしょうが、だからドイツですればドイツの法律でなのでしょうけれど、やっぱり確実にそうだと言い切ることができません。
  (いくつもの声が重なり合って聞こえる、どれがどれだか判別はできない)
Nicolas: 基本的に、コピーレフトのライセンスについて最も問題となるであろう事は、コピーライトシステムと全く異なったようにはオーサーシップを定義していないということです。もちろん、コピーレフトはコピーライトの形をかえます。その過程で人々の習慣を変える後押しするでしょう。でもその第一歩は、やはり著作者は無垢で、オリジナルで影響を受けず、または他の何物からも素材を取ってきていない物であるとみなす事から始まっている訳です。もちろん現実では、ふつうはそこまで信じてはいないでしょうけれど。でも、やはりあなた方がとらなくてはならない必要な一歩でしょうか。そして基本的にどのようにして権利を明らかにするかという問題なのです。あなた方は自分がロマンチックな天才だなんて信じてはいないでしょう。それはもっと、いかなる攻撃からもあなたの作品を守ってきたかどうかというようなことなのです。でもそうする事によって、あなた方は既にたくさんの自分の創造性、作品等、その他いろいろの使用可能性を放棄してきたという事なのです。
 
私が思うに、質問の一つとしてライセンスという立場から考えることが意味あることなのかどうかがあげられると思います。(それからもちろん、どういった文脈でそれを使うのかというのも質問の一つです。なぜならコピーライトについて私が抱えている問題は、コピーライトの例外について取り扱う優秀な法学、法知識によって解決される、と言う事ができるからです。)たとえば、Illegal Art (違法芸術)というウェッブサイトにある作品は、クリエイティブコモンズライセンスを使って解決されるような物ではないのです。なぜなら、そういった場所でみられるイメージ、サウンド、ビデオを使う人達は、意図的にそれらを使い、その著作権を持っているもの自体を批判しているのです。または、ある物を支持する、反対するという事を表明するために使っているからでもあるのです。だから、ある物が誰の所有であるか、という事はその作品の一部でもあるのです。フォックスやディズニーの所有である、ということはそれ自体意味のあることなのです。もちろんだからといって「まずはディズニーに連絡して許可をもらわなくては・・・」という風には言えません。それは意味がありません。
弁護士: 私の事務所の所長マーティン・ストリンバーグ先生が、あなたが捕まったと聞いたらすぐに私に警察本部へ寄越しました。
女性作家: 私を釈放する為に!
弁護士: いいえ、あなたと取引する為にです。彼はワーナーでもフォックスでもパラマウントからでもあなたの欲しい物は何でも持ってくることが出来ます・・・あなたの映画が作られたスタジオ以外ならどこでもです。あなたが逮捕された為、スタジオに出入り禁止なのです、破壊分子として。
Nicolas: この場合、ある作品を言論の自由の為や批判的なサンプリングなどに使用するなど、コピーライトが権利の例外事項としている使用の権利について、弁護士や裁判官はまたは全く守ろうとしない事が問題なのです。一つの裁判が終わってしまえば、そういった問題はすぐに忘れられてしまいます。「でも、許可を得るべきだったよね」と全く阿呆なことを人は言うのです。
 
だからもし、本当に「ライセンスは私には関係ない。なぜなら私は誰かが所有している資源を使うけれど、許可を得る必要がない理由もあるし、基本的にこの立場を守るために戦う準備もできている」と言うことができます。ライセンスを得る必要はないのです。その場合、正確になんというのかは分かりませんが、訴えられた人の団結というか、言論の自由についての情報を伝えるような事になります。そしてそれは「私はライセンスから始めます」と言うポジションとは全く違っている何かだと私は思うのです。私にとって、それはとても重要なことで、なぜなら、クリエイティブコモンズを支持する人はノ フリーアートライセンスにおいては、その矛盾はないのですがノ クリエイティブコモンズを支持する人は「コピーライトは悪いなぜなら・・・」と言いながら、実際はコピーライトが権利の例外事項として設定している事をコピーライトを批判する為に使い、そして、解決策はフリーライセンスだと言うのです。一方が他方の解決策になるわけではないのです。私はフリーライセンスが悪いと言っているのではなく、それが彼らが机上にあげた問題を解く答えではないと言っているのです。
  (たくさんの話し声が判別できないように重なり合い聞こえる)
Terre: ローレンスさん、もしこのプログラム対するあなたの音楽著作権を主張したい場合、どうしたいですか。
Laurence: そうですね、この問題は私には簡単です。なぜならすでにこの作品にはGEMA(ドイツ音楽著作権協会)に登録している著作者が一人いるからです。でも私がタダで自分の仕事を引き渡すというのとはちがいますよ。
Terre: 私はGEMAに登録していません。私はBMI(アメリカ音楽著作権協会)に登録しています。
Laurence: …BMIですか。私が言いたかったのはこのプログラムの一方の著作者は、通常著作権として理解されてる範疇で印税を受け取るということです。だから私は簡単に「回収社会の一員になりたくない」と言えるのです。もし単独でこのラジオ番組を作っていたとしても、私の仕事に対して「No」ということができるので、同じ結論を下すことが出来ます。でもこのような既存のプログラムの為に、タダ働きはしたくないのです。それはつまり、私は何かに対して「No」という余裕がまだあって、なぜならそのほかに本業というか仕事を持っていて、CDもラジオ番組も、音楽も映像もデジタル作品もなにも発行してないからです。しかし最初に著作権を主張しなかったら、プログラム中に私が言ったことについて著作者人格権を主張することができるのかどうかが分かりません。やっぱりわかりません。
Terre: 例えば、私があなたの言ったことをあなたが気に入らない何かに使ったとすればどうでしょう。
Laurence: はい、そしてそれをあなたが出版するとかですね。特にその件について法的な契約はないですからね。でも嫌なことがあっても、それに対して私が自分で何かができる余地を残しておきたくないのです。その方がいいのです。
 
私たちが、あるミーティングをアーティストや振り付け師などの人達としました。みんな友達でした。そしてみんな一様に「自分の作品を貸してもいいよ」と言いました。でもある点について、誰か一人が「いいよ。でも、もしこれを使ったら訴えるからね」と言いました。後でもし友達ではなくなった場合、関係はもっともっと大変なものになるのです。私はあなたを訴えないけれど、でも誰かがこの、何らかの著作者であるという力関係をかつて友達だった誰かを訴える為に使うことは容易に想像できるのです。そしてこのことが本当に私には厄介というが悩みの種なのです。なぜならあなたが私の言ったことからどんな低俗なものを作ったとしても・・・・
 
そうですね、たとえばあなたの作品やスピーチが極右や中絶反対論者や、またはとても性差別的な物に利用された場合、あなたの中にいる著作者は、「これを止めるために私の著作者としての主体性を発揮しましょう」というというのが一般的な例だからだけど、私はその力(権利)を放棄したいのです。でもそのことが、この中で一番の弱者になることを認めたことになるのかどうかは分からないのです。つまらない話だけど、女性だからという理由から一番の弱者になると、フェミニズムの考えで、それはちょっといやだけど…
Terre: はい、おそらくこの作品はコラボレーションで、片方の作者はどのような著作権についても全く関知しないといい、もう片方は100パーセント著作権を主張するというので・・・もしあなたの取り分がこのような植民地主義的なやり方で簡単に手に入れらるのなら、もう片方が100パーセントこの作品の著作者です、と嘘を言えば・・・たぶんプログラムの色々なテーマを考えれば、この微妙なやり方があってもいいでしょう。一人の人がひとつの態度をとりもう一方は違った態度を取り、ある意味どちらも偽善的または間違いの様になってしまうことの矛盾。私の態度はあなたのよりも偽善的で、でも…
Laurence: いいえ、そうではなくて、これはどこでリリースするかにも関係するのです。これはあるラジオプログラムの為のラジオドラマです。もしテーリテムリッツが作った事にすれば、私たちはどんな話でも送れるし、ラジオ局も「いいですね」と言って受け取ります。でも私が一人で作る場合、ラジオ局が「いいね」って言うかどうかは分からない、という事実についてジョークを言っていました。だから私はこの作品について著作権を放棄することはかえって気楽になるともいえます。なぜならこれはあなたの仕事だから。私の仕事はサウンドプロデューサーじゃない。たぶん、私の仕事は、どんな事も私の考え方に矛盾しないようにする事だと思います。
Terre: じゃあ、あなたは自分の権利を私にくれるんですね?
Laurence: はい…
Terre: はい、それではこれが法的な口頭の契約となると信じますので、ここで録音を今すぐ終了とします。

 

07. ミシェル・フーコーからの突然のメセージ
A special message from Michel Foucault

(「作者とは何か」から引用)
翻訳:吉田泉

(Complete / 完全) 2:46 4.8MB MP3 224kB/s

アナウンサー: ザ・ローレンス・ラッセル・ショー、出演ローレンス・ラッセル。 今、ミシェル・フーコーさんからメッセージが届きました…
Foucault:
Pierre De Jaeger
Pierre De Jaeger as Michel Foucault
(フランス語)真実はその逆で、作者なるものは、作品を満たす意味を生み出す無限の源などではない。作者は作品に先行して存在するものではなく、彼は、我々の文化において制限や除外、選択を行うために用いられる、ある種の機能的な原理原則なのだ。一言でいうと、作者なるものは、物語の自由な流通、自由な操作、自由な構築・脱構築・再構築を妨げるものだ。実のところ、もし我々が作者というものについて、これを天才として持ち上げ、絶え間ない発明のほとばしりであるとすることに慣れているとしたら、これは、我々が作者というものを現実にはまさにその逆の方向で機能させているからだ。作者とは観念上の産物であるともいえよう。なぜなら、我々は、作者というものを、歴史上彼が担った実際の役割とは正反対のものとして提示しているのだから。(歴史上所与のものとされる機能が、これをひっくり返すような人物の担う機能として提示されるとき、これを観念上の産物という。)それゆえ、作者というものは観念上の人物であり、意味の増殖に対する我々の恐怖の在り様を明らかにするものなのである。
 
こう言いながら私は、作者なる人物によって物語が制限されることのない文化のかたちを求めているかのようだ。しかし、全き自由のもとに創作が行われ、物語に必要な、あるいはこれを制約する人物(すなわち作者)を経ることなく、物語が皆の手に委ねられて発展していくような文化を思い描くことは、純粋なロマンチシズムであろう。とはいえ、18世紀以来、作者は創作活動の調整者という役割、すなわち、この産業社会・ブルジョア社会という時代そして個人主義と私的所有制度を特徴づける役割を果たしてきたものの、現に起きている歴史的な変容を考えると、作者という機能が、その形式や複雑さ、さらにはその存在(の要否)においてすら、今後もこのままであり続けることが必要とは必ずしも思われない。私が思うに、我々の社会が変わるにつれ、まさにその変革のさなかにおいて、物語とその多義的なテキストがもう一度別のモードにしたがって機能する為に作者という機能は消失するだろう。そのとき(物語への)制約がなくなるわけではないが、制約のシステムはもはや作者ではなく、今後決定される、あるいは、おそらく体験されるものとして立ち現れるシステムであろう。

 

11. ローランド・バルトからの突然のメセージ(抜粋)
A special message from Roland Barthes

(「作者の死」から引用)
翻訳:吉田泉

(Complete / 完全) 10:04 17.1MB MP3 224kB/s

アナウンサー: ザ・ローレンス・ラッセル・ショー、出演ローレンス・ラッセル。 今、ローランド・バルトさんからメッセージが届きました…
 
・・・
Laurence: それは全く冗談みたいで、同時にまた逆説的なこと。なぜなら、女たちは「作者」の後ろにある(不当に搾取された)性と肉体と身体の返還を要求し続け、女の画家、女の映画作家、女の作家がいることを繰り返し主張し続けていた時だった。その同じ時、68年と69年、バルトの「作者の死」、フーコーの「作者とは何か」という偉大で神話的なテキストが発表された。どちらの作品も読者の誕生のために作者の死を主張していた。偶然にその二人の男性の主張には、フェミニストが望んだのと同様の「作者を本気で殺し、家父長制的な天才の象徴、すなわち男性の作家を排除する」という考えが含まれていた。しかし、同時にそれはフェミニストたちが作者みたいに振舞う為に自ら占拠する必要があった「作者」という居場所を崩していくことにもなった。あの頃のねじれはここにあった。自分が作者であることを私たちがついに主張するに至ったまさにそのとき、はて、作者が死んでしまったというのは、なんだか冗談みたいだと私は思う。つまるところ、女たちやフェミニストたちは、ある意味いつだって遅れているということになった。女たちが作者の取り戻しを主張するとき、それはもはや時代遅れである。「あんたたち遅れてるわ、なんて流行遅れなんでしょう。」という感じだ。女たちは何世紀もの間、作者の姿を追い求め続けているということである。今までの(西洋の家父長制の)システムにおいて、作者とまたはそのインスピレーションは全く女性を含まなかった。というのは、昔、着想の源は(ユダヤ教・キリスト教の老爺の)神さまから来たと言われていた。それから、今度は生物学(男性が女性の文化に一切影響を受けず、男性独自で無性生物的に家父長制の社会を生んだと主張した)。それから、次は実存主義者とコンセプチュアルな作者。それから次はまた別のなにか、また別のなにかノ だから、女性はずっと作者の姿を追い求め続けているわけである。いつだって遅れている。でも同時に、逆説的だが、私たちーフェミニストである「私たち」かもしれないし、現在女である「私たち」かもしれないーがこの場所を決して手に入れることがないということが、私には素敵に思える。私たちは決してそれを捕まえることがない。つまり、私たちは決して正しい場所を手に入れることがない。私はそれを素敵だと思う。いつだって混乱させて、いつだって追い求めて、いつだって移動して、いつだって手に入れられないなにかを追い求めている。それは私たちを休ませない、無駄な期待に無益な運動でもあるが… そして私はそれが好き。
 
・・・
 
ええ、確かに、フェミニストたちはいまだに50年代、60年代そして70年代初頭のフランスの知識層に対して悲しみと怒りを抱いている。なぜなら、彼らは自分達の作品とフェミニストの作品や理論との間にあるつながりを明確に認めようとは決してしなかったのだから。だから、社会の変化に直面したときー家父長制の象徴を、教育システムや刑務所やその他もろもろを取り囲んでいる父親を排除しようと望むときー知識層たちはフェミニストの作品と歴史と自分達の間にあるつながりを決して認めようとはしないだろう。
 
・・・

 

12. テーリの自白(ライブ・バージョンの脚本)
Terre's confession

翻訳:辻愛子

(Complete / 完全) 5:36 9.6MB MP3 224kB/s

Laurence: 告白の時が来た…
Terre: 始める前に、まずこの部屋にただよう悪臭について皆さんにあやまらなくてはなりません。準備の時に、私たちはこの悪臭が部屋の中にあるのか、それとも部屋の外から入ってくるのかわかりませんでした。この死体とくさった肉の匂いが。この臭いは私の体に入り、私の呼吸にも入ってきました。今話すたびに、自分の言葉の中にその味を感じることができます。たくさんの死体がみえます。だれが最初に死んだのか私にはわかりません。正確な記録がないのです。なぜなら、死人の中のあるものはまだ死んでないし、その死から生まれてくるものもあるし、混乱していて記録をとることがむずかしいのです。
 
Aiko Tsuji
Aiko Tsuji as Terre Thaemlitz
私の兄と私が生まれる間に、私の母は……まだ生きていますが、いろいろな 方法で彼女の人生の中で何度も死んでいるのですが……その母は 死産を経験しました。彼女はその流産となった子を女の子だと信じていました。母は私が生まれてから、時々、私にこう言いました。「神さまは私から女の子を取っていったけれど、かわりにあなたを 授けて下さった」私はその死んだ姉の名前に生まれてきました。「テーリ」。T-E-R-R-Eとつづります。スペイン語の女性名Terreです。これは私の最初の「死」です。私の少年の体は、明らかに女性的とはいえないとしも、少なくとも中性的な名前によって「殺された」のです。家父長制の社会では、「中性」ということは、男ではないということになり、「女性的」という意味におきかえられます。ちょうど、色々な人種を考えた時に、白人でなければが「黒人」となるように。たとえば、「タイガーウッズ」は世界的に有名な黒人ゴルファーと 呼ばれていますが、それは、彼のアジアの血と白人の血のをしずかに殺してしまうことによってのみ可能なのです。私はこれと同じ、私の男性姓の殺害を経験しました。なぜかはわかりませんでしたが、これは私のトランスジェンダーとして生まれた部分にとても重要なことに思えます。
 
私の両親……まだ生きていますが、人生の中で何度も死んでいると言えるでしょうが……その両親はカトリックです。私の父は母と結婚するまでの約20年間、聖ドミニカ教会の僧侶でした。母は、まずしい少女時代に修道女たちに育てられました。父はずっと、教会の男性の聖職者に殺され続けました。思想的にばかりでなく肉体的にも、虐待と破壊によってです。一方で私の母はずっと女性聖職者によって、本当に殺人的な父親からの虐待から救われ続けたのです。多分この経験から、二人が私の男性性を殺す事に合意し、共謀したのでしょう。でもこれでは私の殺されなかった男のままの兄弟達……まだ生きていますが、人生の中で何度も死んでいるといえるでしょうが……その兄弟達の事を説明することができません。
 
私の死んだ姉・・・生まれてきた時に殺された・・・この姉が、私の話の焦点ですが、でも私には、正確な誕生日も、年齢も、生まれた時間もわからない、だからついに殺される時が来てもその死んだときも、享年も正確にはわからない、そんな「生まれたのではない」、養女として私の家族になった妹がいる事をお話ししておかなくてはならないでしょう。これでおわかりのように私の家に女の子は生まれませんでした。生まれたとしても、私の最初の姉のように、実際に生まれたけれど死んで生まれてきたように、殺害へ生まれない限りはです。
 
私も殺害へ生まれてきたと思います。私の男性性の殺害に生まれてきたのです。しかし、2002年の春に私もまた「生まれたのではない」という事を発見しました。私の姉妹の事を考えるとこれは意味をなすのです。なぜなら、私のトランスジェンダーは、私の誕生を中性にし、それは先ほどお話ししたように女性という方に置き換えられ、そして私の家に女性は生まれませんでした。でも、私は「生まれてはいない」のです。2002年春、私の故郷にある腐敗した死体の臭いのする両親の家へ帰ったときに、私がまさか見つけるとは思われてもいなかった箱を私は発見してしまったのです。私の両親が、すでに抹殺したと思っていたその箱を私は掘り出してしまったのです。この箱の中には私が「生まれたのではない」という事の秘密が隠されていました。それは、事実は、私は死んだ姉の組織から再生された組織が生まれたものだったのです。皆さんが驚くのも、無理はありません。私にも何の事だかさっぱりわかりませんでしたし、理解するのもとても大変でした。なぜなら、その記録は掘り出されてばらばらになってしまったからです。まるで私の両親のように不完全で腐敗していました。私がクローンであると言いたいのではありません。でも待全くクローンではないとも言えないのです。その時代に今日のような遺伝子工学の技術が存在していない事は知っていますが、そのルーツはありました。私はそのルーツから育ったのです。姉のルーツから。彼女は私の父になります。その組織から私は作られ母の新しく受胎した卵に殖え付けられたのでした。これは私の初めての殺人です。その受胎した卵を殺したのです。そして私が生まれました。
 
私の姉を殺さなかった事にする・・・つまり、私の誕生をもって彼女の死の概念を殺してしまう・・・私の第二の殺人は私の姉の死を殺して生まれた事で、それはまた私の初めての自殺でもあるのです。なぜなら私は姉から遺伝的に組成されているのですから。私の言う事がお分かりになりますか?とても複雑だって言う事、わかります。これはとてもお話するのがむずかしい話です。誰も私の発見したことを信じたくはないからです。これは完全犯罪ですね。私の体と声がこの事実を証明する何よりの物的証拠なのに、この話はあまりに信じ難いので、話自体がその真実を殺してしまうのです。これは今の死と殺人と自殺の臭いです。私の呼吸と言葉と行動を悩ませます。私の両親の戦略的な秘密の結果です。殺人と、死と、自殺と生まれたときから腐敗した臭い。
 
私の声の臭いがきこえますか?これは私の復讐の匂いなのです。
 
・・・

 

16. 無益な運動
Useless Movement

翻訳:吉田泉

(Complete / 完全) 4:06 7.1MB MP3 224kB/s

Michel Foucault: (「作者とは何か」から引用)真実はその逆で、作者なるものは、作品を満たす意味を生み出す無限の源などではない。作者は作品に先行して存在するものではなく、彼は、我々の文化において制限や除外、選択を行うために用いられる、ある種の機能的な原理原則なのだ。一言でいうと、作者なるものは、物語の自由な流通、自由な操作、自由な構築・脱構築・再構築を妨げるものだ。実のところ、もし我々が作者というものについて、これを天才として持ち上げ、絶え間ない発明のほとばしりであるとすることに慣れているとしたら、これは、我々が作者というものを現実にはまさにその逆の方向で機能させているからだ。作者とは観念上の産物であるともいえよう。なぜなら、我々は、作者というものを、歴史上彼が担った実際の役割とは正反対のものとして提示しているのだから。(歴史上所与のものとされる機能が、これをひっくり返すような人物の担う機能として提示されるとき、これを観念上の産物という。)それゆえ、作者というものは観念上の人物であり、意味の増殖に対する我々の恐怖の在り様を明らかにするものなのである。
 
こう言いながら私は、作者なる人物によって物語が制限されることのない文化のかたちを求めているかのようだ。しかし、全き自由のもとに創作が行われ、物語に必要な、あるいはこれを制約する人物(すなわち作者)を経ることなく、物語が皆の手に委ねられて発展していくような文化を思い描くことは、純粋なロマンチシズムであろう。とはいえ、18世紀以来、作者は創作活動の調整者という役割、すなわち、この産業社会・ブルジョア社会という時代そして個人主義と私的所有制度を特徴づける役割を果たしてきたものの、現に起きている歴史的な変容を考えると、作者という機能が、その形式や複雑さ、さらにはその存在(の要否)においてすら、今後もこのままであり続けることが必要とは必ずしも思われない。私が思うに、我々の社会が変わるにつれ、まさにその変革のさなかにおいて、物語とその多義的なテキストがもう一度別のモードにしたがって機能する為に作者という機能は消失するだろう。そのとき(物語への)制約がなくなるわけではないが、制約のシステムはもはや作者ではなく、今後決定される、あるいは、おそらく体験されるものとして立ち現れるシステムであろう。
Laurence:
Laurence Rassel
Laurence Rassel as self
それは全く冗談みたいで、同時にまた逆説的なこと。なぜなら、女たちは「作者」の後ろにある(不当に搾取された)性と肉体と身体の返還を要求し続け、女の画家、女の映画作家、女の作家がいることを繰り返し主張し続けていた時だった。その同じ時、68年と69年、バルトの「作者の死」、フーコーの「作者とは何か」という偉大で神話的なテキストが発表された。どちらの作品も読者の誕生のために作者の死を主張していた。偶然にその二人の男性の主張には、フェミニストが望んだのと同様の「作者を本気で殺し、家父長制的な天才の象徴、すなわち男性の作家を排除する」という考えが含まれていた。しかし、同時にそれはフェミニストたちが作者みたいに振舞う為に自ら占拠する必要があった「作者」という居場所を崩していくことにもなった。あの頃のねじれはここにあった。自分が作者であることを私たちがついに主張するに至ったまさにそのとき、はて、作者が死んでしまったというのは、なんだか冗談みたいだと私は思う。つまるところ、女たちやフェミニストたちは、ある意味いつだって遅れているということになった。女たちが作者の取り戻しを主張するとき、それはもはや時代遅れである。「あんたたち遅れてるわ、なんて流行遅れなんでしょう。」という感じだ。女たちは何世紀もの間、作者の姿を追い求め続けているということである。今までの(西洋の家父長制の)システムにおいて、作者とまたはそのインスピレーションは全く女性を含まなかった。というのは、昔、着想の源は(ユダヤ教・キリスト教の老爺の)神さまから来たと言われていた。それから、今度は生物学(男性が女性の文化に一切影響を受けず、男性独自で無性生物的に家父長制の社会を生んだと主張した)。それから、次は実存主義者とコンセプチュアルな作者。それから次はまた別のなにか、また別のなにかノ だから、女性はずっと作者の姿を追い求め続けているわけである。いつだって遅れている。でも同時に、逆説的だが、私たちーフェミニストである「私たち」かもしれないし、現在女である「私たち」かもしれないーがこの場所を決して手に入れることがないということが、私には素敵に思える。私たちは決してそれを捕まえることがない。つまり、私たちは決して正しい場所を手に入れることがない。私はそれを素敵だと思う。いつだって混乱させて、いつだって追い求めて、いつだって移動して、いつだって手に入れられないなにかを追い求めている。それは私たちを休ませない、無駄な期待に無益な運動でもあるが… そして私はそれが好き。
 
いつだって混乱させて、いつだって追い求めて、いつだって移動して… 無益な運動。
 
ええ、確かに、フェミニストたちはいまだに50年代、60年代そして70年代初頭のフランスの知識層に対して悲しみと怒りを抱いている。なぜなら、彼らは自分達の作品とフェミニストの作品や理論との間にあるつながりを明確に認めようとは決してしなかったのだから。だから、社会の変化に直面したときー家父長制の象徴を、教育システムや刑務所やその他もろもろを取り囲んでいる父親を排除しようと望むときー知識層たちはフェミニストの作品と歴史と自分達の間にあるつながりを決して認めようとはしないだろう。