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terre thaemlitz writings
執筆

2014年を振り返って
プレイリスト・ソサエティー(フランス)のために掲げた2014年の日本社会のリストアップ
 
テーリ・テムリッツ


Originally published in Playlist Society (FR), January 2 2015. 翻訳:吉田 泉

 

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最も記憶に残る録音

6月18日、東京都議会における、右派議員から塩村文夏議員に対する性差別的なやじ

6月18日、塩村都議が、他の議員に向けて、東京都の育児施策のもとで女性が直面する困難に関する(ごくありふれた内容の)スピーチを行っていたとき、安倍首相が党首を務める自民党に所属する鈴木章浩都議が、自席から「(自分が)早く結婚した方がいいんじゃないか」と叫んだ。鈴木が塩村都議に対して「黙れ、政治家を辞めろ」と言っているのは明らかだが(日本では結婚と同時に退職せよという根強い圧力が女性にかかることも参照されたい)、後に彼が公式に行った謝罪によれば、彼の発言は特に塩村都議に向けられたものというよりは、すべての女性に向けて「(日本が直面する)少子化と晩婚化のなかで、(その問題を解決するために)早く結婚して頂きたいという軽い思いで言った」ものなのだという。まるで、そう言っておけば、自分の失礼さが減るとでも言わんばかりである。

議場が笑いに包まれるなか、いまだに誰の声か判明していない「(自分は)産めないのか?」という次のやじが続いた。このような侮蔑の標的とされた女性が、まったくのネオリベである右寄りの政党「みんなの党」の一員であることは注目に値する。彼女は、決して自らをフェミニストと定義するような人物ではないし、私自身が政治的に同盟を組む相手でもない。フェミニストではない彼女のような人物が攻撃の的にされるという事実は、2014年の日本に引き続き存在する女性蔑視の根深さの証である。動画には、不意を突かれた塩村都議が、最初、やじに合わせて笑うシーンがある。公の場で嫌がらせをされた経験のある人なら誰しも身に覚えがあるはずだ。驚きの瞬間とともに生まれる、居心地の悪い反射的な笑い(若いころ、おかまイジメに遭った私も、最初にそのような笑いで反応したことが一度ならずある)。それから数秒後、彼女の声は震え、いまにも泣き出しそうになる。一見異常なこの事件の本質が、実は極めて散文的な社会力学の現れであるからこそ、この動画は観ていてとても辛い。

最も発見が難しい録音

柳沢伯夫(元厚生労働大臣)の「産む機械」発言

2014年初め、映画脚本家の宇治田隆史氏から、新たに創刊されるカルチャー誌「ファーベン」の音楽欄に掲載するテキストとイラスト及び限定盤7インチレコードの製作を依頼された。テキストのなかで、私は、日本の人口減少に関する2007年の悪名高い講演において、柳沢が女性を「産む機械」と呼び、人口減少の唯一の解決策は工場の組立ラインのピッチを上げることであると明言したことに触れた。愚かにも女性をモノ扱いし、また、人口減少の社会的原因についての無知・不見識を露呈させたにもかかわらず(家族と工業という柳沢がアピールする制度そのものがもたらす女性差別にこそ、人口減少の原因が根差しているのに)、その後も柳沢は厚生労働大臣の地位にありつづけた(いうまでもなく、彼もまた自民党の党員だ)。

7インチレコードのB面として、私は柳沢の講演の録音を加工した楽曲を作ろうと思った。しかし、私と宇治田氏のスタッフたち(日本の映画及びテレビ業界に通じている人々である)による懸命の努力にもかかわらず、録音の所在は突き止められなかった。オンラインでもオフラインでも。オンライン上のすべてのサイトからその録音は削除されたようであり、その事実は、インターネット上からの完全なる除去は可能であるということを示していた(しかるべき政府の権力が背後についていれば、の話であるが)。自分の作品のオンライン上での流通をコントロールしようと私や仲間が終わりのないそして無益な苦闘を続けてきたことを考えると、この録音ファイルの削除の徹底ぶりには驚嘆せざるを得ない。当時、録音を放送したテレビ局にも尋ねてみたが無駄だった。彼らは、録音テープは残っていないと言うのだが、とても本当とは思えない。

講演の録音を見つけられなかったため、私は、柳沢の講演を巡る報道と抗議の様子を収めた録音から楽曲を作った。「ナイショウェーブマニフェスト」と題した私のテキストのより大きなテーマは、文化的周縁部における自己防衛手段として、クローゼットへの引きこもり・沈黙・秘密主義が担う役割と、これらが依然として必要であることに焦点を当てるものであったが、柳沢の講演録音の不在は、そのテーマに驚くべき対位法を提供することとなった。私は、抑圧的で支配的な文化の権力のうちにあって、沈黙はひとつの生存戦略であると語ったのだが、その一方で、柳沢の講演についてなされた信じられないほど完全な歴史からの消去は、支配的な文化が持つ沈黙の能力を誇示するものであった。

最も「わいせつ」な逮捕

2014年12月3日、わいせつ物公然陳列の疑いによる渡邉みのり(別名北原みのり)と五十嵐恵(別名ろくでなし子)の逮捕

私がこれを書いている12月3日現在―安倍首相の任期延長がかかる国政選挙までちょうどあと1週間だ―、自民党とその子飼いである警察は、アーティスト五十嵐恵とイラストレーター兼セックスショップ運営者の渡邉みのりの再逮捕に打ってでた。2人の容疑は、五十嵐の制作したヴァギナを模したオブジェが渡邉の店舗で展示されていたことがわいせつ物陳列罪にあたるというものだ。この件では、性器の写実的な描写は厳しく禁じるが、物体そのものや画像イメージ(イラスト等)には一般的に適用されないはずの検閲法が、極めて曖昧なかたちで適用された。五十嵐は、この7月、3Dプリンターでの出力に用いられる、彼女の性器をスキャンしたデータを頒布したことで逮捕されたが、彼女の逮捕を技術的に基礎づけたのは、最終的な3Dの物体ではなく、データそのものをシェアしたことだった。警察は、彼女のヴァギナの画像データをシェアすることは、「ポルノ素材の頒布にあたる」と主張した。これは、医療業界において、性器周辺をMRIでスキャンすることや、医師の間でそのスキャンデータを送ることはもはや許されないと主張するのに等しい馬鹿げた主張だ。空港での全身のスキャンはどうなる?警察と政府によるこれらの法律の適用は、明らかに恣意的・濫用的なものであり、そこには一貫性も自己省察もない。

悲しむべきことに、いまこの瞬間も五十嵐は拘束されたままだ。渡邉は釈放されたが、彼女の苦難は終わっていない。五十嵐の逮捕について、芸術的表現と検閲という見慣れた切り口による西欧諸国の報道が散見される。しかしながら、渡邉の逮捕には、五十嵐の作品を陳列したことについての共犯という容疑を超える動機があるのではないかと思う。渡辺は安倍首相に対する筋金入りの批判者であり、彼女はその政治的な漫画コラムの連載において安倍をしばしば批判してきた。外国人の眼には空想じみて見えるかもしれないが、選挙前のこの重要な一週間、彼女の逮捕が彼女のコラム連載を止めさせるための方策であった可能性は大いにある(この記事が出るころには選挙は終わっており、悲しい予言だが安倍の再任が決まっているだろう。第二次世界大戦の後、自民党は、1990年代の2年間と、安倍が首相となる直前の2、3年間を除いて、常に日本の政権を担い続けている。自民党政権はすぐには終わらないだろう。更新:この予言のとおり、安倍と自民党は選挙に勝った。)

逮捕の文脈を理解する一助として、小泉首相(2001年から2006年までの自民党政権)のもと、安倍が日本の教育制度を「きれいにする」役割を託された責任者に選ばれていたことを説明したい。この教育改革が始まると、公立学校の教育において急速に進んでいた「ジェンダーフリー」な教育の動きはすぐさま壊滅し、公立図書館からはフェミニストのテキストが取り除かれた。「本を取り除くなんて全く検閲みたいじゃないか」と思ったあなたは正しい。この検閲で最初の標的とされた執筆者は、東京大学の教授であり、60年代後半から精力的な作家、講師、そしてオーガナイザーとして広く知られるフェミニストの上野千鶴子である。2006年、彼女の本が本棚から取り除かれたのと同じころ、上野は、東京都が協賛した人権問題に関する一連の講演において最初の登壇者を務める予定であった。直前になって、東京都は、彼女が「ジェンダーフリー」という用語を使うことを恐れて、講演をキャンセルさせた。人権問題に関する会議において講演内容を検閲するということの皮肉が、自民党においては失われていたのだろう。彼らはそんなこと気に留めなかったし、気に留めないで済む権力を有していた。というわけで、安倍は、フェミニストとジェンダーに関する言説への抑圧について、この10年以上、直接的かつ現在進行形の関わりを持っていることになる。渡邉と五十嵐は、上野が定期的に催していたフェミニストの会議である「千鶴子ゼミ」の精力的な参加者であったし、そういったことのすべては、政府と警察による継続的な監視のもとにあったのだろう。

個人的には、五十嵐の作品は、概して無邪気なオブジェであって、検閲をめぐる日本の風潮という文脈のなかでしか深みを持たないという点において、作品として弱いと思う(例えば、彼女の最も有名な作品である「ヴァギナ・カヤック」など)。彼女の作品自体は、その制作を枠づける、より広義の文化的な苦闘について多くのヒントを与えてくれるわけではない。西欧の基準からすると、彼女の作品は「無害」であり、時とともに、その作品を生み出すもととなった暴力という実際の文脈が記憶から薄れ、五十嵐の自己表現の「仕草」が残るだけとなるや、美術市場において「時間を超越したもの」へと変貌するであろう(これが、私がファインアートを憎む理由のひとつだ)。そして、報道の大半が渡邉ではなく五十嵐に注目した理由も、おそらくそこにある。なぜなら、現代のジェンダーをめぐる闘いに関するより正確な議論を公にすることに比べ、「芸術的表現」を求める闘いというリベラルな修辞を弄することは、はるかに生易しい文化的所業なのだから。ファインアートと呼ばれる株式市場に投資するお金があるからという理由だけで、ネオリベたちは「芸術的表現」を擁護する。そして、「セックスはよく売れる」のだ。しかし、私は、今回の逮捕の根幹は、芸術に対する検閲などではないと確信を持っているし、そのような議論は的外れだ。

今回の逮捕の根幹にあるのは、保守的な自民党とあまりにも強大な日本の警察による権力の濫用である。軍隊への資金注入、人権制限の拡大、政府に疑問を呈することの不能、政府機関の民営化、社会福祉の廃止、大衆を無知にとどめおくために削減される教育費用、保守的な二項対立的ジェンダーモデルへの退行、35年ローン(そこにあるのは借金だけ!)を通じて人々を経済的にも思想的にも奴隷化するための、「家族の価値」と「マイホームの所有」という終わりなき呪文の押し付け。すべて、レーガンとサッチャー以来の伝統を受け継ぐものである。そこには、「レーガノミクス」の栄光にあやかろうとするキャッチーな呼び名すらあるではないか。「アベノミクス」と。

Illustration credits : Comatonse Recordings